無事に朝が来た。
海から太陽が昇る。
今日はこの街を出て那覇に向かいます。
ため息ばかり。

絶対会えると思っていた人。
会えない。
本人の意思ではないだけに、胸が痛い。
沖縄戦を体験した人生の生きづらさで気持ちが沈む。
二日間お世話になったこの部屋、残念だけれど、多分、この町に二度とくることはない。

隣はファミマ。
朝ごはんは昨夜のうちに50円引きで買っておいたチキナー。
しっかり温めて美味しくいただきました。

旅のお供のキャベツと納豆と梅干し、玄米のパックご飯は使い切りました。
そして夏にhirokoちゃんからもらったこの味噌汁。
今朝でおしまい。
おかげで、外食疲れなしで乗り越えられました。
このペースだと、ランチは15時ごろ。
最後の沖縄ご飯は、あそこに行こう。

今日の予定がなくなってしまったので、どう過ごそうかと考えたけれど、思い通りにいかないジレンマで、ひらめきがない。
最後の宿のある那覇を通り越し、甲斐の塔にお参りして、草取りして、この旅の感謝と『忘っつぃんのぉ』の成長にちからをいただけるよう手を合わせようと、向かった。
ちょうど、今日は環境整備の日らしく、伐採作業の方々のお昼休憩の時間でした。
こうやって管理されているのね。
荒れていないし、今日は恒例の草取りはしなくてOK。
山梨県の塔は見晴らしが良い場所。

ここは摩文仁の丘の近く、この眺めの先にあるのは最南端の喜屋武岬(きゃんみさき)

まだ、ため息しか出ないけれど、お参りが済んだら遅めのランチにと考えていました。
休憩中の整備のおじさんに、ここを綺麗にしてもらえて嬉しいとお礼を伝えました。
次の会話を思い出せないけれど、この出会いが旅の締めくくりをきっちり締めてくれました。
おじさんは糸満生まれの78歳。
戦後生まれ。
待て、待て、、、アメリカに統治されていた沖縄に戦後という言葉は使えない。
ハッとした。
しかも、糸満生まれ、糸満育ち、この摩文仁周辺の沖縄戦終焉の地で生きてきた方。
生で聴く、衝撃的な当時の沖縄の様子。
本土でいう、戦後2年生まれだけれど、おじさんの記憶には、人骨収集の悲痛な体験、当時の生活、米軍との関わりがある。
ベトナム戦争の時は基地で働き、その時の基地の内部の記憶は鮮明。
ちょっと、ちょっと......
糸満で戦死された方は戦後8年立っても放置のままだったなんて、言われないと気がつかない。
確かに、南冥の塔が設置されたのは1954年昭和29年。
日系二世の米兵ヤマモト・タツオ氏が、摩文仁区民とともに身元不明の兵士や住民の遺骨を収骨して祀った。
トラックで運ばれたご遺骨は12,000柱。
この作業に関わった記憶がある方だった。
旅の最後にあまりにもリアルな話を聞くことが出来て、興奮という言葉は不謹慎だけれど、尊い時間でした。
連絡先をいただき、おじさんは作業に戻って行った。
「またインタビュー OKよ!」と。

元気になりました。
単純ですみません。
一人で行っちゃダメだよ...と言われた場所。
近くだったので、入り口に近づいたけれど、その意味を体感しました。
あらためて準備してから来ます。
那覇に移動しよう。
長旅の疲れを感じます。
最後のご飯は、最初に寄ったさかな大統漁に。
14時半過ぎなら、行列は少ないはず。
バッチリ
グルクンの唐揚げ
頭から尻尾まで完食。

そして漁師飯のお試しサイズ。
普通の丼飯サイズです。
ここの正規メニューサイズは、私には食べきれない。
他にも看板メニューはたくさんあり、運ばれてきた料理を真顔で迎える人はいない。
みんな幸せな顔。
最後の晩餐
グルクン唐揚げ500円
漁師丼800円
贅沢で幸せでした。


まだ、贅沢は続きます。
ブルーシーのダブルアイスクリーム。
また頑張ろう。

今日の宿は、フライトまでの調整空間のいつものグランドキャビン。
昨日までの広すぎるお部屋の真逆でベッドのみの部屋。
よく出来ていて清潔で使い勝手は本当に良い。
コンテナホテルより狭いけれど、別ブースのシャワー・パウダールームはまるでプライベート空間。
使い放題のフロントとワーキングスペースも広くて清潔で、旅慣れさんが多いから干渉なし。

部屋にはベッドと携帯が置けるほどのコンセントテーブル、トランクキャリーがおけるスペースとこの鏡。
館内用の部屋着が借りられるから、荷物の整理は夜のうちに完了できます。
これまで貯めたポイントを使って朝食付き2,800円でした。
今回の旅も頭も心も満タンで、たくさん寝て消化しないと整理できません。
11月29日(土) 甲州市民会館ホール
『忘っつぃんのぉ』
大きくヴァージョンアップします。
明日は山梨に帰ります。
猫たちは元気かな。
iwamaさん、待っていてね。